寺報


No.289

寺 報

平成30年9月号       ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第16条 

(ひとつ) 信心(しんじん)行者(ぎょうじゃ)自然(じねん)に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶(どうぼうどうりょ)もあいて口論(こうろん)をもしては、かならず回心(えしん)すべしということ。

この(じょう)断悪修繕(だんあくしゅぜん)のここちか。一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、回心(えしん)ということただひとたびあるべし。その回心(えしん)は、()ごろ本願他力真宗(ほんがんたりきしんしゅう)をしらざるひと、弥陀(みだ)智慧(ちえ)をたまわりて、()ごろのこころにては、往生(おうじょう)かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願(ほんがん)をたのみまいらするをこそ、回心(えしん)とはもうしそうらえ一切(いっさい)()に、あしたゆうべに回心(えしん)して、往生(おうじょう)をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるほどをまたずしておわることなれば、回心(えしん)もせず、柔和忍辱(にゅうわにんにく)のおもいにも(じゅう)せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨(せっしゅふしゃ)誓願(せいがん)は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力(がんりき)をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人(あくにん)をたすけんという(がん)不思議(ふしぎ)にましますというとも、

現代語訳

念仏者が思わず腹をたてたり、悪いことをしてしまったり、仲間内で口論などしたときは、必ずそのことを悔い改め回心しなければならないということ。この事は、悪を断ち善を行い、救いにあずかろうという気持ちがあるのだろうか、一心一向に阿弥陀仏におまかせしている念仏者においては、「回心」ということは、たった一度だけあることです。その回心というのは、常日頃、本願他力の浄土真宗のことを知らなかった人が阿弥陀仏の信心の智慧をいただいて、これまでの日頃の自力の心では浄土に往生することができないと思って、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願におまかせしようとすることをこそ、回心というのです。もし一切のことについて、朝夕に回心してはじめて、往生ができるというのであれば、人間のいのちは、出る息は入る息をまたずして亡くなることもあるので、回心もせず、安らかで落ち着いた気持ちにもならないうちに命が尽きてしまえば摂め取って捨てないという阿弥陀仏の誓願は、むなしいものになってしまうのではないでしょうか。口では本願力をたのみたてまつるといいながら、心のなかではいくら悪人をすくうという阿弥陀仏の本願がいかにも不思議な働きをもつとはいっても、

 

「他力」と言うは如来の本願力なり。

 

他力と申すは仏智不思議にて候ふなるときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ、しからば義なきを義とすと候ふなり。

 

「即得往生」は信心をうればすなはち往生すといふ。「すなはち往生す」といふは不退転に住するをいふ。「不退転に住す」とぴふは即ち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを「即得往生」といふなり、「即」はすなはちといふ、すなはちといふは時をへず日をへだてぬをいふなり。

 

 

 

 



No.288

寺 報

平成30年8月号       ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第15条 後半

この()をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊(しゃくそん)のごとく、種種(しゅじゅ)応化(おうけ)(しん)をも(げん)じ、三十二相(さんじゅうにそう)八十隋形好(はちじゅうずいぎょうこう)をも具足(ぐそく)して、説法利益(せっぽうりやく)そうろうにや。これをこそ、今生(こんじょう)にさとりをひらく(ほん)とはもうしそうらえ。「和讃(わさん)」にいわく「金剛堅固(こんごうけんご)信心(しんじん)のさだまるときをまちえてぞ弥陀(みだ)信光摂護(しんこうしょうご)してながく生死(しょうじ)をへだてける」(善導讃(ぜんどうさん))とそうろうは、信心(しんじん)のさだまるときに、ひとたび摂取(せっしゅ)してすてたまわざれば、六道(ろくどう)輪回(りんね)すべからず。しかればながく生死(しょうじ)をばへだて、そうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗(じょうどしんしゅう)には、今生(こんじょう)本願(ほんがん)を信じて、かの()にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人(こしょうにん)のおおせにはそうらいしか。

現代語訳

この身このままで悟りを開こうと言う人は、釈尊のように、いろいろ姿を変えて三十二相や八十隋形好などといわれる姿をそなえ、自在に説法し衆生を救うといわれるのでしょうか。これをこそこの世において悟りを開く即身成仏の手本ということが出来ましょう。親鸞聖人は「高僧和讃」で「しっかりとした阿弥陀仏への信心の決定した時、阿弥陀仏はその時を待って、阿弥陀仏の光明に摂め取られて、生死流転の苦しみから抜け出させていただくのである」(善導讃)ということであれば、信心が定まったときに一度摂め取れば、捨てることがないので、六道を輪廻するようなことはないのです。そうであれば、永久に生死の迷いをはなれることになるのです。このように了解したことをこの世で悟りを開くなどとまぎらわしいことをいうのだろうか。ほんとうにあわれむべきことです。

「浄土真宗においては、今生において阿弥陀仏の本願をいただいて、浄土に往生して悟りを開くということになっている」と、いまは亡き親鸞聖人が仰せられたことであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



No.287

寺 報

平成30年7月号       ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第15条  前半

(ひとつ)煩悩具足(ぼんのうぐそく)()をもって、すでにさとりをひら

ということ。この(じょう)、もってののことにそうろう。即身成仏(そくしんじょうぶつ)真言密教(しんごんひきょう)本意(ほんい)三密行業(さんみつぎょうごう)証果(しょうか)なり。六根清浄(ろっこんしょうじょう)はまた法華一乗(ほっけいちじょう)所説(しょせつ)四安楽(しあんらく)(ぎょう)感徳(かんとく)なり。これみな難行上根(なんぎょうじょうこん)のつとめ観念成就(かんねんじょうじゅ)のさとりなり。来生(らいしょう)開覚(かいかく)他力浄土(たりきじょうど)宗旨(しゅうし)信心(しんじん)決定(けつじょう)(みち)なるがゆえなり。

これまた、易行下根(いぎょうげこん)のつとめ、不簡善悪(ふけんぜんあく)(ほう)なり。おおよそ、今生(こんじょう)においては、煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)(だん)ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言(しんごん)法華(ほっけ)(ぎょう)ずる浄侶(じょうりょ)、なおもて順次生(じゅんじしょう)のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解(かいぎょうえげ)ともになしといえども、弥陀(みだ)願船(がんせん)(じょう)じて、生死(しょうじ)苦海(くかい)をわたり、報土(ほうど)のきしにつきぬるものならば、煩悩(ぼんのう)黒雲(こくうん)はやくはれ、法性(ほっしょう)覚月(かくげつ)すみやかにあらわれて、尽十方(じんじっぽう)無碍(むげ)光明(こうみょう)一味(いちみ)にして、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)利益(りやく)せんときにこそ、さとりにてはそうらえ

現代語訳

煩悩をかかえたこの身のままでこの世で悟りを開くといっているということ、このようなことは、もってのはか、とんでもないことです。

即身成仏の教えは真言密教の根本教義、大日如来と行者の相応修行による悟りです。

人の感覚の六根を清浄にして自在の働きを表す六根清浄の法は、法華経に説かれるところ、これは菩薩の行法、四安楽の行で感得する境地です。これらはみな、自力による難行ですぐれた人達の修行で、観念の統一によってはじめて得られるさとりの境地です。これに対して、未来に浄土に生まれて悟りを開くというのが他力の浄土真宗の教え、信心を決定することで浄土に生まれ、仏になるという道なのです。

これは、また、誰もが行いやすく、私たちのようなつまらないものもでき、善人も悪人も選ぶことのない法なのです。だいたいこの世においては煩悩や悪障を断ち切ろうとすることはきわめて難しいことであるからして、真言・法華の教えを行じている聖僧の方達でもなお次の生での悟りを祈っているのです。まして、戒律を守ることも仏教を正しく理解することもできない私たちであるとはいっても、阿弥陀如来の本願の船に乗せていただいて、生死の苦海を渡らせていただき、悲願の浄土の岸に着いたらならば、たちまち煩悩のさわりがなくなり身如の月がすぐに現れて、何ものにもさまたげられない阿弥陀如来の光明と一体になって、一切の衆生を救い取ることになったとき、そのとき、それが、悟りというものなのです。

 

 

 


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No.286

寺 報

平成30年6月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第14条 もししからば、一生(いっしょう)のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死(しょうじ)のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(ねんぶつたいてん)せずして往生(おうじょう)すべし。ただし業報(ごうほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議(ふしぎ)のことにもあい、また病悩苦痛(びょうのうくつう)せめて、正念(しょうねん)(じゅう)せずしておわらん。念仏(ねんぶつ)もうすことかたし。

そのあいだのつみをば、いかがして(めっ)べきや。つみきえざれば、往生(おうじょう)はかなうべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)(がん)をたのみたてまつらば、いかなる不思議(ふしぎ)ありて、罪業(ざいごう)をおかし、念仏(ねんぶつ)もうさずしておわるとも、すみやかに往生(おうじょう)をとぐべし。また、念仏(ねんぶつ)のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる()ちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀(みだ)をたのみ、御恩(ごおん)(ほう)じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを(めっ)せんとおもわんは、自力(じりき)のこころにして、臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意(ほんい)なれば、他力(たりき)信心(しんじん)なきにてそうろうなり。

現代語訳

そうであれば、一生の間思うことは、すべてだれもがみな、生死の迷いにとらわれているのであるから、この命が尽きるまで念仏を称え続けて往生を願わなければならないことになります。ところが、私たちの一生は業報に制約されていることだから、どのような思いもよらぬことに出会うことにもなりかねないし、また、病気にのたうって仏を念ずることができずに死んでしまうこともありましょう。そんなときは、念仏を称えることは難しいことです。

その間の罪は、どのようにして滅したらよいのでしょう。罪が消えなかったならば、浄土への往生はかなわないのでしょうか。摂め取って捨てないという阿弥陀如来の本願を信じたならば、どのような思いもかけないことが有って罪をおかし念仏を称えることができずに亡くなっても、即座に浄土に往生するのです。

また、臨終に念仏が称えられるのも、ただいま、悟りを開かせていただく時期が近づくにしたがっていよいよ阿弥陀如来の本願を信じ、その御恩を報ずることであるのです。念仏を称えて罪を滅しようと思うのは、自力の心であって、臨終において妄念を起こすことなく阿弥陀仏の浄土へ往生したいのがその人の本意であるから、そのような人は他力の信心がないというのであります。

 「本願を信じ」と「念仏を申す」はひとつのことで、前後関係でなく同時のことです。本願を信じるがままが、念仏を申すという形であらわれ、念仏申すままが本願を信じるあり方なのです。親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」といわれました。行と信とは同じであるとお示しくださったのです。




No.285

寺 報

平成30年5月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第14条   (ひとつ)一念(いちねん)八十億劫(はちじゅうおくこう)重罪(じゅうざい)(めっ)すと(しん)ずべしということ。

この(じょう)は、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)罪人(ざいにん)、日ごろ念仏をもうさずして、命終(みょうじゅう)のとき、はじめて善知識(ぜんじしき)のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念(じゅうねん)もうせば、十八十億劫(とはちじゅうおくこう)の重罪を滅して往生すといえり。これは十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念(いちねんじゅうねん)といえるか、滅罪(めつざい)利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆえは、弥陀の光明にてらさらまいらするゆえに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらいにおさしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生忍(むしょうにん)をさとらしめたもうなり。この悲願(ひがん)ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)解脱(げだつ)すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏(ねんぶつ)もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでに、われとつみをけして、往生(おうじょう)せんとはげむにてこそそうろうなれ。

現代語訳

一声の念仏によって、八十億劫もの長い間造り続けてきた重罪をも滅すると信じないということ。

この事は「観無量寿経」に十悪五逆のどうしようもない罪人が、ふだんは念仏を称えることがなくて、いよいよ亡くなろうとする時、初めて良き師の教えによって一声念仏を称えると、八十億劫の重罪が消え、十声の念仏を称えれば八十億劫の十倍の重罪も消えて往生が出来るとある経文によったものでしょう。これは、十悪、五逆の罪の重さを知らせるために一声の念仏、十声の念仏と罪の重さを示したもので、要するに念仏の滅罪の利益を説いたものです。このような念仏によって滅罪をはかろうとする人は、私たちが信じている他力の念仏とは違い、私達が信ずるものではないのです。そのわけは、阿弥陀如来の光明に照らされて、本願を信じて念仏を称えようという思いが起ったとき、阿弥陀如来から金剛堅固の信心をいただくので、そのときすでに、往生が定まって命が終わる時にありとあらゆる煩悩悪障が一転して真実のさとりを得させていただくのです。

もしこの阿弥陀如来の本願がなかったならば、このようなあさましい罪人が、どうして生死の迷いの世界から脱することができようかと思い、一生かかって称え続ける念仏はみなことごとく阿弥陀仏の計り知れない恩徳に報謝するためのものと思うべきであります。ところが、念仏を称えるたびに、その功徳によって罪を滅ぼそうと思うことは、すでに自分で自分の罪を消して浄土に往生しようと励むことであって、自分のはからいといえましょう。                                    次号に続く



No.284

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平成30年4月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第13条 さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうろうらわじものを。また「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野山に、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、 

聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。「唯信抄」にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。

現代語訳

そうかといって、自分の身に悪を作る様な縁が無いならば、とても作れるものではありません。「海や川で投網をし、釣りをして漁業で生計を立てている人も野山で猪を狩り鳥を捕まえて生計を立てている人も、商売をしたり、田畑を耕して生計を立てている人も、全く同じことであります」と。「どうしてもそうなるような業縁がもよおしてきたら、どんな行為もするものです」と、こように親鸞聖人は仰せられていますが、このころの人は、いかにも立派に後世を願っているような顔をして、善い人ばかりが念仏を称えているようにふるまい、あるいは、念仏道場に貼り紙をしてこのようなことをした者はこの道場へ入ってはならないと言った様な事をしているのは、賢者や善人らしく努めはげんでいるようにしていながら、内では嘘で固めた偽善者ではないでしょうか。本願に甘えて罪をつくる本願ぼこりも、つまり宿業のもたらすものなのです。そうであれば、善いことも悪いことも、業報にまかせてしまい、ただひたすらに本願をたのむことであればこそ、他力の救いというものなのです。聖覚法印の「唯信抄」にも「阿弥陀如来にどんなに力がおありになるかを知ってのことだろうか、罪深い身だから、救われがたいと思ってしまうのは、(きっと知らないからだろう)」といわれていることです。

本願をほこりに甘える心があってこそ、阿弥陀如来の本願におまかせする信心も定まることであります。だいたい、悪業煩悩を無くしてから本願を信じることであるならば、本願をほこりに甘えることもねくていいのであるが、煩悩を断じてしまえば、即時に仏になっているのであるから、仏のためには、もはや阿弥陀如来の五劫思惟の本願は必要がなくなっているのです。本願をほこり、甘えるなといって他人を戒める人たちも、煩悩不浄、これをみんな身につけておられるように見受けれれます。だからそれも、本願をほこり、甘えていることになるのではないでしょうか。(そうであれば)どんな悪を本願ぼこりといい、どんな悪を本願ぼこりでないというのでしょうか。そのようなことをいうのは、かえって幼稚な考えではないでしょうか。



No.283

寺 報

平成30年3月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第13条 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生(おうじょう)のために千人(せんにん)ころせといわんに、すなわちころすべし。一人(いちにん)にてもかないぬべき業縁(ごうえん)なきによりて、(がい)せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また(がい)せじとおもうとも、百人千人(ひゃくにんせんにん)をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしかば、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、(がん)不思議(ふしぎ)にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。そのかみ邪見(じゃけん)におちたるひとあって、(あく)をつくりたるものを、たすけんという(がん)にてましませばとて、わざとこのみて(あく)をつくりて、往生(おうじょう)(ごう)とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息(ごしょうそく)に、「くすりあればとて、(どく)をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執(じゃしゅう)をやめんがためなり。まったく、(あく)往生(おうじょう)のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律(じかいじりつ)にてのみ本願(ほんがん)(しん)ずべくは、われらいかでか生死(しょうじ)をはなるべきや」と。かかるあさましき()も、本願(ほんがん)にあいたてまつりてこそ、げにほこれそうらえ。

現代語訳

さらにこの事からも分かるように、何事も自分の心の思い通りなるならば、往生の為に千人の人を殺せと言われたら、すぐにも殺すことが出来るだろう。しかし、たった一人でも殺さねばならない業縁が無い時には、殺せないものである。殺さないというのも、自分の心が善いから殺さないのではない。また、殺すまいと思っても百人はおろか、千人もの人をも殺すこともあるだろう」と仰せられたのは、私たちが心が善ければ往生のためには善いことだと思い、心が邪しまであれば往生のためには悪いことだと思い、阿弥陀如来の本願の不思議によって助けられているということを知らないでいることをいってくださっているのです。以前のこと、間違った考えを持った人がいて、悪人を救うための本願であるかえあといって、わざと好きこのんで悪を行って、往生のたねとしたらよいなどといって、いろいろ、悪い噂が聞こえたとき、親鸞聖人は手紙でもって「薬があるからといって、好んで毒を飲んではならない」と仰せられたことは、往生のために邪悪なことをすべきであるといった、誤った考えを止めさせるためです。決して聖人は悪は往生のさまたげとなるといわれたのではありません。

「戒律を守ることだけで本願を信ずることができるというのであれば、私たちの様なものは、どうして生死の迷いから離れることができるだろうか」といわれたのです。このようなあさましい身も如来の本願に出会えてからこそ、本当に本願に甘えられるのです。



No.282

寺 報

平成30年2月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第13条

(ひと)つ、弥陀(みだ)本願不思議(ほんがんふしぎ)におわしませばとて、(あく)をおそれざるは、また、本願(ほんがん)ぼこりとて、(おうじょう)かなうべからずということ。この(じょう)本願(ほんがん)をうたがう、善悪(ぜんあく)宿業(しゅくごう)をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善(しゅくぜん)のもよおすゆえなり。悪事(あしきこと)のおもわれせれるるも、悪業(あくごう)のはからうゆえなり。故聖人(こしょうにん)のおおせには、「卯毛羊毛(うもうようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業(しゅくごう)にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房(ゆいえんぼう)はわがいうことをば(しん)ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状(りょうじょう)もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生(おうじょう)一定(いちじょう)すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人(いちにん)もこの()器量(きりょう)にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞(しんらん)がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。

現代語訳

阿弥陀如来の本願が不思議な働きがあるからといって、悪を行うことを恐れないような人は、また、本願に甘える本願ぼころりというもので、往生はかなわないということ。このことは、如来の本願をうたがうものであり、それはまた、善悪の宿業を心得ないものです。善い心の起るのも、宿業にかかわっているものです。悪いことをしようと思う心の起るのも、悪業のはからいのためです。亡くなられた親鸞聖人のおっしゃるには、「兎の毛や羊の毛の先についている塵といった小さな罪の場合も宿業でないものはないことを知らねばならない」と仰せられました。また、あるとき親鸞聖人は、「唯円房よ、あなたはわたしのいうことを信じるか」と仰せられたので「はい、信じます」と申し上げたところ、「それでは、わたしの言ったことに背かないか」と重ねて仰せられたので、つつしんでお受けいたしますと申し上げたと申し上げたところ聖人は、「それでは、人を千人殺してみなさい、そうすれば往生は間違いないであろう」と仰せられました。「その時私は、仰せではございますが、ただの一人も私の力では殺せることとも思われません」と申し上げましたところ、「それでは、どうして親鸞の言うことに違背するようなことはしないといったのか」と尋ねられました。



No.281

寺 報

平成30年1月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第12条―後半

(ぶつ)の、かねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたもうことをもうすなり」とこそそうらいしか。いまの()には学文(がくもん)して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論議(ろんぎ)問答(もんどう)むねとせんとかまえられそうろうにや。学問(がくもん)せば、いよいよ如来(にょらい)御本意(ごほんい)をしり、悲願(ひがん)広大(こうだい)のむねをも存知(ぞんじ)して、いやしからん()にて往生(おうじょう)はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願(ほんがん)には善悪(ぜんあく)浄穢(じょうえ)なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生(がくしょう)のかいにてもそうらわめ。たまたま、なにごころもなく、本願(ほんがん)相応(そうおう)して念仏(ねんぶつ)するひとをも、学文(がくもん)してこそなんどといいおどさるること、(ほう)魔障(ましょう)なり、(ぶつ)怨敵(おんてき)なり。みずから他力(たりき)信心(しんじん)かくるのみならず、あやまって、()をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師(せんし)(おん)こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀(みだ)本願(ほんがん)にあらざることを。

現代語訳

釈尊はかねてから信ずる人もそしる人も共にあることをご存じで、人びとの疑いをなからしめようとして説きおかれたことをいうのです」とおおせられたことであります。この頃では、学問をして人からのそしりを防ぎ止め、唯ひたすらに論議問答をどのようにしたらよいかなど力を入れているのではないでしょうか。学問をすれば、いよいよ如来の御本意を知って、ご本願の広大さを信知して、自分の様な癒しい身でも、往生はできるのだろうかなど心配している人にも、本願は善人悪人の区別も無く、心の清い人や汚れた人のへだてもなく平等に救うと誓われていることを説き聞かせてあげてこそ、学問をした人の甲斐があるというものでしょう。たまたま何のこだわりもなく本願に従って念仏する人に対して学問してこそ往生ができるのだといっておどすようなことは、仏法を妨げる魔物であり、仏に仇をなす敵であります。そういった人は、自ら他力の信心がいただけていないばかりか、あやまって他人までまどわしてしまうのです。このようなことは慎んで恐れなければなりません。親鸞聖人の御心にそむくことでありますから、さらに悲しむことであります。阿弥陀如来の本願にそむくことになるからであります。



No.281

 

寺 報

平成30年1月新年号     ほうりん   真宗仏光寺派 宝林寺

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 新年明けましておめでとうございます。

 聞信徒のみなさん、健やかに新年を迎えられたことと存じます。

昨年は、みなさまのご協力とご支援を賜りありがとうございます。

昨年は、トランプ米大統領就任、北朝鮮核実験、金正男氏マレーシア空港で殺害、ノーベル文学賞にカズオ・イング氏、朴大統領罷免、仏大統領マクロ氏、英EU離脱、米ラスベガスで銃乱射、トランプ「パリ協定」離脱、メキシコ地震369人死者などのできごとがありました。国内では、眞子さまの婚約、天皇退位特例法成立、将棋藤井四段誕生、阿部内閣発足、横綱日馬富士暴力問題が有りました。

本山では、 澁谷 覚様が真覚新門主となられました。

当宝林寺においては、無事年中行事を勤めることができました。

 本年も昨年と同様に宝林寺の護持発展にご協力ご支援の程よろしくお願い申し上げます。

 

 

平成30年 宝林寺行事予定

    1月 1日  修正会

     28日  堂中勘定日

   2月15日  斎米料集金開始予定日

   3月2日  春 彼岸会法要

   4月 2日  本山 春法要

   4月14日  本山差向法要

   12日  永代経

27日  仏教藤の会総会

   8月13日

     14日  お盆法要

     15日

   9月2日  秋 彼岸会法要

  10月25日  報恩講

     27日  大阪別院 報恩講

  11月21日~28日 本山 御正忌報恩講

  12月31日  歳暮法要  

 

 



No.280

寺 報

平成29年12月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

                宝林寺ホームページ http://hourin.onamae.jp/

     電話 0724-72-1414

第12条―後半

われもひとも、生死(しょうじ)をはなれんことこそ、諸仏(しょぶつ)御本意(ごほんい)にておわしませば、(おん)さまたげあるべからずとて、にくい()せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは、「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩(ぼんのう)おこる、智者遠離(ちしゃおんり)すべき」よしの証文(しょうもん)するにこそ。故聖人(こしょうにん)のおおせには、「この(ほう)をば(しん)ずる衆生(しゅじょう)もあり、そしる衆生(しゅじょう)もあるべしと、(ぶつ)ときおかせたまいることなれば、われはすでに(しん)じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説(ぶつせつ)もことなりけりとしられそうろう。しかれば往生(おうじょう)はいよいよ一定(いちじょう)とおもいたもうなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに(しん)ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。

現代語訳

私も人も生死を超越することこそが、諸仏の御本意であれば、私が念仏を称えることをどうかさまたげないでくださいと、おだやかにいえば、誰が敵対するでありましょうか。また「諍論をするといういろいろの煩悩がわきたつことだから、思慮のある人はそれから離れることです」というご文もあるほどです。亡くなられた親鸞聖人のおっしゃったことで、「この教えを信ずる人もあり、またそしる人もあるに違いないと、釈尊がすでにお説きになっていることであれば、私はすでにその教えを信じ申し上げており、また、その教えをそしる人があってこそ、釈尊のお説きになったことは真実であったと知らされるのです。そうであるからして、往生はいよいよ決まったものと思いいたることであります。もしこの教えをそしる人がいなかったら、いかに信ずる人はあってもなぜそしる人がいないのだろうかと、かえって疑問に思うことでしょう。こういったからといって、必ず人にそしられることを欲するものではありません。

他力

いかにいわんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず、ゆゑに「阿弥陀」と名づけたてまつると。これを「他力」といふ。



No.279

寺 報

平成29年11月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第12条―後半

学問(がくもん)をむねとするは、聖道門(しょうどうもん)なり、難行(なんぎょう)となづく。あやまって、学問(がくもん)して、名聞利養(みょうもんりよう)のおもいに(じゅう)するひと、順次(じゅんじ)往生(おうじょう)、いかがあらんずらんという証文(しょうもん)もそうろうべきや。当時(とうじ)専修念仏(せんじゅねんぶつ)のひとと、聖道門(しょうどうもん)のひと、法論(ほうろん)をくわだてて、わが(しゅう)こそすぐれたれ、ひとの(しゅう)はおとりなりというほどに、法敵(ほうてき)もいできたり。謗法(ほうぼう)もおこる。これしかしながら、みずから、わが(ほう)破謗(はほう)するにあらずや。たとい諸門(しょもん)こぞりて、念仏(ねんぶつ)はかいなきひとのためなり、その(しゅう)、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根(げこん)凡夫(ぼんぶ)一文不通(いちもんふつう)のものの、(しん)ずればたすかるよし、うけたまわりて(しん)じそうらえば、さらに上根(じょうこん)のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上(さいじょう)(ほう)にてまします。たとい自余(じよ)教法(きょうぼう)すぐれたりとも、みずからがためには器量(きりょう)およばざれば、つとめがたし。

現代語訳

学問を主体とするのは聖道門です。これは難行といわれるものです。まかり間違って学問をもって名誉や財欲のかてにしようとする人たちは、来世の往生はどうなるのかと仰せられた親鸞聖人の御文もあるくらいなのです。このごろ、専修念仏の人と聖道門の人が論争を行って自分の宗旨こそがすぐれていて、他人の宗は劣っているなどといって、仏法に敵対するものもあらわれています。また法をそしる人も出てきています。これはしかしながら、自分で自分の宗旨をおとしめることになるのではないでしょうか。たとい、他宗旨の人たちが皆、念仏はつまらない人たちのための教えであり、その内容は、底が浅くて低級なものであるといっても、なお争うことなく、私たちのようなつまらない凡夫、文字一つ知らない者も、ただ阿弥陀仏の本願を信じさえすれば救われるということを聞いて信じているのだから、あなた方のようなすぐれた人にとっては低級な教えであっても、私たちにとっては、この上ない教えであります。たとい他の教えがどんなにすばらしいものであっても、自分にとってはそれを受け入れるだけの力がないので、それを勤めることができないのです。




No.278

寺 報

平成29年10月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第12条―前半

(ひとつ) 経釈(きょうしゃく)をよみ(がく)せざるともがら、往生(おうじょう)不定(ふじょう)のよしのこと。この(じょう)、すこぶる不足言(ふそくごん)()といいつべし。他力(たりき)真実(しんじつ)のむねをあかせるもろもろの正教(しょうぎょう)は、本願(ほんがん)(しん)じ、念仏(ねんぶつ)をもうさば(ぶつ)になる。そのほか、なにの学問(がくもん)かは往生(おうじょう)(よう)なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問(がくもん)して、本願(ほんがん)のむねをしるべきなり。経釈(きょうしゃく)をよみ(がく)すといえども、聖教(しょうぎょう)本意(ほんい)をこころえざる(じょう)、もっとも不便(ふびん)のことなり。一文不通(いちもんふつう)にして、経釈(きょうしゃく)のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号(みょうごう)におわしますゆえに、易行(いぎょう)という。

現代語訳

経典や注釈書を読んだり学問をしない人たちは、往生はできないといっている者があるとのこと。このようなことはまったく話にもならないつまらない、ことといわねばなりません。他力の真実の教えを明らかに説いているいろいろな聖教は、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を称えれば仏になると、説かれています。このはかに、往生のために、どんな学問が必要というのでしょうか。ほんとうに、この道理が分からない人は、どこまでも学問を続けて阿弥陀仏の本願のいわれを知るべきです。経典や注釈を読んで学問をしてみても、聖教の本意を心得ることができないことは、ほんとうに気の毒なことであります。文字も分からず、経典や注釈の筋道もわからないような人にも称えやすいようにされている名号であるから、これを易行というのです。

 

他力のみ教えが真実であることを明らかにされたお聖教には、「ご本願を信じお念仏をもうせば仏になる」と教えられてあります。そのほかにどんな学問が往生に必要でしょうか?

本当に、この道理がわからない人は、ふかく学問して、ご本願のおこころを知らねばなりません。お聖教を読み学問しても、その本当の意味がわからないのはまことに気の毒なことです。



No.277

寺 報

平成29年9月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

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第11条

これは誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)を、むねと(しん)じたてまつれば、名号(みょうごう)不思議(ふしぎ)具足(ぐそく)して、誓願(せいがん)名号(みょうごう)不思議(ふしぎ)ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪(ぜんあく)のふたつにつきて、往生(おうじょう)のたすけ・さわり、二様(ふたよう)におもうは、誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)をばたのまずして、わがこころに往生(おうじょう)(ごう)をはげみて、もうすところの念仏(ねんぶつ)をも自行(じぎょう)になすなり。このひとは、名号(みょうごう)不思議(ふしぎ)をも、また(しん)ぜざるなり。(しん)ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮(へんじけまんぎじょうたいぐう)にも往生(おうじょう)して、果遂(かすい)(がん)のゆえに、ついに報土(ほうど)(しょう)ずるは、名号不思議(みょうごうふしぎ)のちからなり。これすなわち、誓願不思議(せいがんふしぎ)のゆえなれば、ただひとつなるべし。

現代語訳

このことは、阿弥陀仏の誓願の不思議をもっぱら信じさえすれば自ら名号を称えられる不思議もそなわっていて、誓願・名号の不思議は決してそれぞれ別のものではないのであります。次に自分のはからいをさしはさんで人間の善悪について、善は、往生の助けと成り、悪は往生のさまたげとなると考えるのは、誓願の不思議を信ぜずに自分自身、善を積んで往生の手だてを考え、他力の念仏をも自力の善行としてしまうことです。このような人は、名号の不思議も同様に信じないということです。しかし、このように名号の不思議を信じなくても、名号を称えれば辺地懈慢疑城胎宮という仮りの浄土に往生して、どこまでも真実の浄土に生まれさせたいとする阿弥陀如来の誓願(第20願)によってついには真実の浄土に生まれさせていただくのは、名号不思議のはたらきによるものなのです。このことはつまり、誓願不思議によるものですから、誓願も名号もまったく一つのものということになるのです。

小さな「我」に執らわれ、知らず知らずのうちに自分の「我」を周りに押し付けて、他の人の思いをそのまま受け取ることが出来なくなっているのが私たちではないでしょうか。「我」によって他の「いのち」の音声をシャットアウトしている状態を闇と言います。闇とは、光のささない世界でなく、音が届かない世界です。音を門の内に閉じ込めた状態が「闇」という字です。私たちは自分では全く気がつかないないうちに闇をさまよう生き方をしているのです。周りの人にぶつかり、ものにぶつかり、相手をなじり、相手を悪魔にします。自らは不愉快な日暮らしです。その小さな「我」を執らわれから解放し、周りの「いのち」を受け入れ、それぞれの光輝く世界に生まれさせてやりたいと、阿弥陀さまは願いをかけて下さるのです。



No.276

寺 報

平成29年8月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

     電話 0724-72-1414

第11条

(ひとつ)一文不通(いちもんふつう)のともがらの念仏(ねんぶつ)もうすにおうて、「なんじは誓願不思議(せいがんふしぎ)(しん)じて念仏(ねんぶつ)もうすか、また名号不思議(みょうごうふしぎ)(しん)ずるか」といいおどろかして、ふたつの不思議(ふしぎ)子細(しさい)をも分明(ぶんみょう)にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この(じょう)、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)によりて、やすくたもち、となえやすき名号(みょうごう)(あん)じいだしたまいて、この名字(みょうじ)をとなえんものを、むかえとらんと、御約束(おんやくそく)あることなれば、まず弥陀(みだ)大悲大願(だいひだいがん)不思議(ふしぎ)にたすけられまいらせて、生死(しょうじ)をいずべしと(しん)じて、念仏(ねんぶつ)のもうさるるも、如来(にょらい)(おん)はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願(ほんがん)相応(そうおう)して、実報土(じつほうど)往生(おうじょう)するなり。 つづく                           

現代語訳

文字ひとつ分からない人たちが念仏をしていることに対して「本来一つであるべき本願と名号をわけて、そなたは、阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏を称えるのか、あるいはまた、南無阿弥陀仏という名号の不思議を信じて念仏するのか」などいって驚かし、この二つの不思議のわけをきっちりと説明もしないで問い正し、人びとの心をまどわすこと、このことは、くれぐれも留意しておかなければならない大切なことなのであります。阿弥陀仏の誓願の不思議によって、いつも心に思いとどめやすく、称えやすい名号を考え出したくだされてこの南無阿弥陀仏の名号を称える人を浄土に迎え取ろうと誓願として約束されたことであるから、まず、阿弥陀仏の大悲の誓願の不思議にお助けいただいて生死の迷いの世界から離れることを信じて念仏を称えることも如来の深いおぼしめしだと思えば、そこにはわずかの自分のはからいも入っていないので、如来の本願にしたがって真実報土(浄土)に往生することができるのです。

 誓願の不思議によって、心にたもちやすく口に称えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出され、この名号を称えるものを浄土へ迎え取ろうとお約束くだされたのです。だからわたしたちが、阿弥陀如来の大慈悲よりおこされた誓願の不思議に助けられて、迷いの世界から出ると信じて、お念仏を申させていただくのも、如来のお力によると思えば、そこには少しも自力の計らいがありませんから、名号を称えるままが誓願のお心にかなって、真実の浄土に生まれさせていただくのです。



No.275

寺 報

平成29年7月号      ほうりん  真宗仏光寺派 宝林寺

     電話 0724-72-1414

第10条

(ひとつ) 「念仏(ねんぶつ)には無義(むぎ)をもって()とす。不可称(ふかしょう) 不可説(ふかせつ) 不可思議(ふかしぎ)のゆえに」とおおせそうらいき。

そもそもかの御在生(ございしょう)かし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠(りょうえん)洛陽(らくよう)にはげまし、(しん)をひとつにして(こころ)当来(とうらい)報土(ほうど)にかけしともがらは、同時(どうじ)御意趣(ごいしゅ)をうけたまわりしかども、そのひとびとともないて念仏(ねんぶつ)もうさるる老若(ろうにゃく)、そのかずをしらずおわしますなかに、上人(しょうにん)のおおせにあらざる異議(いぎ)どもを近来(きんらい)はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々(じょうじょう)子細(しさい)のこと。

現代語訳

ひとつ「念仏は、義の無いことを義とする法です。念仏は、人間の思慮分別を超えた道であって、他の思想と比較することも、言葉で説明することも、思いはかることも不可能ですから、義なきを義とす、というのです。」とこのように親鸞聖人からお聞きしたことでございます。

さて、親鸞聖人が生きておられてころ、同じ志をもって、徒歩で遥かに遠い関東から京都まで旅し、同一の信心に生きて共に阿弥陀の浄土にうまれようと心に願った仲間は、同時に親鸞聖人から本願の意趣を承りましたのに、それらの人々の教えをうけて念仏もうしておられる老人や若者は、その数を数えられない程多くなりました。その中には、親鸞聖人の仰せとはまったく違う法義などを近頃多くの人が語りあっておられるように、伝え聞きました。それらのひとつひとつについて根拠が無いことを以下にぬき書きします。